いま、私たちが立っている土地は、原始時代からはじまり、古代、中世、近世、近代と、時代ごとに生き抜いてきた人たちが踏み固めてできたもの。そしてその土地の上に建っている建築物は、そこで生きてきた人の暮らしを記憶しているもの。
「熊本の建築からはじまる、熊本の歴史語り」は、熊本市内に保存、管理、運営されている記念館を訪ね、そこに縁のある偉人たちがその時代に残した足跡や、建築に刻まれた記憶の一部を不定期連載でご紹介しています。今回は、2023(令和5)年の9月に再建され、リニューアルオープンした熊本洋学校教師ジェーンズ邸を訪ねました。
日本の伝統建築技術の粋を集めた 擬洋風建築を現代に再現
明治時代という時代、特に明治初期は、思想も、学問も、人々の行動も、生活様式も、西洋のものがどっと流れ込み、まさに“激動”という表現がしっくりくる時代だったに違いありません。そんな激動の最中、1871(明治4)年に開学したのが「熊本洋学校」。
このコラムの第一回で紹介した横井小楠の教えやその思想に影響を受けた人たちの先進的な考えのもと、西洋教育を採り入れるべく熊本藩が力を入れて取り組んだ、いわゆる教育事業のひとつです。その教師として白羽の矢をたてられたのが、アメリカ人のリロイ・ランシング・ジェーンズでした。外国人教師を迎えるために、現在の県立第一高校の場所に建てられたのが、今回ご紹介する熊本洋学校教師ジェーンズ邸です。
ジェーンズ邸は時代を経て、熊本洋学校が閉学した後も建物は役割を変え、幾度も移築された歴史を持っています。熊本県に残る最古の洋風建築でもあるこの建物は、2016(平成28)年4月の熊本地震で倒壊。約13メートルの高さがあった建物が、わずか2メートルの高さにつぶれるほど、大きな被害を受けました。
倒壊直後から有志の手によってその部材や展示資料が保護する活動が行われ、一部の資料は失われたものの、多くのものが救出されました。その救出された部材を利活用し、2023(令和5)年9月に、電車通り沿いの水前寺公園内に移築・復元した上で、再開館を果たしました。熊本地震から7年の月日が経って完成したその姿に、感慨深い気持ちがこみ上げてきます。
再開館を果たした現在の建物を見て、「おや、記憶にあるジェーンズ邸とちょっと違う?」と、違和感を覚える人も少なくないでしょう。それもそのはず、移築ごとに修理し、色を塗り直し、それを繰り返したことによって、建築当時の趣はかなり変化していったといわれます。
熊本地震直前の白い壁に、青緑の柱の組み合わせを記憶している人が大多数だと思いますが、今回の再開館にあたり、1871(明治4)年に建てられた新築当時の写真(もちろんモノクロ)をもとに研究・画像解析し、壁の色、柱の色、建築方法を忠実に再現。熊本洋学校がはじまった激動の明治期当時の姿で、同じく世の中が激的に変化している令和の時代にジェーンズ邸は蘇ったのです。令和の画像解析技術があったからこそ、このプロジェクトは実現できたのでしょう。
今回の復元作業で明らかになった大きなポイントは、ベランダの柱の色がもともと白であったということ。これは、熊本地震の倒壊によって折れた柱を調べたところ、青緑の色の下に、白色のベースがあったことが判明したといいます。
さらに、建築当時のモノクロの写真を調べたところ、壁の色はいわゆる鼠漆喰(ねずみしっくい)といわれる、明治に流行だった色だったことがわかりました。さらに、鬼瓦の上には「鳥衾(とりぶすま)」と呼ばれる円筒状に突き出した瓦を設置。倒壊した瓦で使用できるものは再利用し、建物の西側に古い時代のものを集めています。だから、今回復元完成した熊本洋学校ジェーンズ邸は、西側からまずは見てほしいのです。
ジェーンズ邸のシンボルともいえる暖炉の煙突は、実は建築当時には無かったそうです。煙突はジェーンズ氏のこだわりで、引っ越しした後で追加オーダーしてつくったものだという逸話があります。明治初期に、洋館建築の経験も無く、ましてや実物を見たことがない職人たちが、日本家屋建築の技術を集めて、工夫して、なんとかつくりだしたものであることが、このエピソードからもうかがえます。このように、日本の伝統的な建築技法を用いて建てられた洋館を「擬洋風建築」といいます。
偉業とも、奇跡ともいえる約5年間 この地から世界へと目を向けていた若者たちがいた
今回の復元作業において、倒壊した建築部材を通して、手挽きの痕跡や、ノミを入れた跡など、明治初期の職人の技にふれる良い機会でもあったといいます。新しい時代の幕開けとともに西洋の思想、文化を学ぶための学校をつくり、アメリカから教師を招くということは、熊本にとっては威信をかけた取り組みだったに違いありません。学校運営とともに、海外から招聘した教師の住居建築は、かなり気合いが入った事業だったでしょう。その気合いや職人たちの気迫のようなものが、建物の随所に感じられるようです。
熊本洋学校ジェーンズ邸を訪れた際は、ぜひとも細やかな意匠にも注目してほしい
開国したばかりの日本、熊本において、熊本洋学校への期待は高く、開学時の生徒募集には、10歳から16歳の約500人の入学希望者が集まったといいます。このうち入学を果たしたのは、わずか46人。英語ができる人の一部は無試験で入ることができたそうですが、それでもわずか10人ほど。かなりの倍率で、狭き門だったことがわかります。
ジェーンズはすべての授業を英語のみで行い、まったく日本語を使わない授業に生徒たちは苦労したようですが、選び抜かれた志を持った若者ばかりが集まっていたため、その成長は著しいものだったといいます。
特筆すべきことは、熊本洋学校は開学から閉学までわずか5年。その間に入学したのは200人を超えていたといいます。その卒業生はさまざまな分野で功績を残し、近代日本の発展を支えた人物が数多くいます。東京農業大学初代学長の横井時敬、九州帝国大学工科大学初代学長の中原淳蔵、九州学院初代院長の遠山参良、大江義塾創設者の徳富蘇峰など、そうそうたるメンバーが卒業生として名を連ねています。
わずか5年、約200人の卒業生(途中退学して大学へ編入した人も含め)の中には、現代の百科事典に掲載されるほどの人物がかなりいる、というわけです。この短期間にこれだけの人材を輩出したことは驚異的なことです。
熊本洋学校閉学とともに、ジェーンズは熊本をはなれましたが、熊本に滞在したわずか5年間で教育以外のことにも影響を残しています。そのひとつが農業です。キャベツやカリフラワー、レタス、ジャガイモ、トマトなどの西洋野菜の種を取り寄せ、栽培を指導したことがきっかけで、熊本に新しい野菜が広がりました。牛や馬に道具をひかせて、農業の効率化にも寄与しました。
また、ジェーンズ邸では妻のハリエットによる女子の教育が行われ、熊本洋学校4年目には女子2人の聴講が許可されています。当時としては先進的な男女共学をはじめたことにも、ジェーンズの功績が見られます。
2023(令和5)年の9月に再開館した熊本洋学校ジェーンズ邸。電車通りから少し奥に入ったところにあり、目の前には広々とした公園では、散歩をする人、物思いにふける人、いろんな人の日常が繰り広げられています。世の中がひっくり返るような激動の明治初期にも、きっと人々のおだやかな日常があったはず。そんな思いを巡らせながら扉を開いてほしい、そんな歴史語りの建物です。
■熊本洋学校教師ジェーンズ邸
住所:熊本市中央区水前寺公園12-10
問合せ先:096-382-6076
利用料金:無料(2024年3月まで無料期間)※2024年4月以降は200円
利用時間: 9:30〜16:30
休み:月曜(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
熊本洋学校教師ジェーンズ邸の情報については、こちらからご覧ください。
https://kumamoto-guide.jp/spots/detail/72
文:やまうち ようこ
写真:原 史紘
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