熊本の窯元を巡り、そのつくり手をご紹介する「熊本、うつわ便り」。今回ご紹介する井上尚之さんはスリップウェアが全国的に人気の作家さんです。また、小代焼の大家とされる井上泰秋さんを父に持つ「小代焼ふもと窯」の二代目でもあります。約400年の歴史と伝統の中に自身のアイデンティティを取り入れた現在の作風が生まれるまでの背景や、これからのことについてお話を伺いました。
窯元の長男として誕生 欠けた陶器でままごとも
雲仙の島原半島を望む小岱山。小代焼は豊かな自然が残るこの山の麓でうまれた九州を代表する陶器です。小岱山で採れる鉄分の多い赤土を使った素朴で力強い作風が特長で、現在も小岱山麓を中心に11の窯元が点在しています。中でも荒尾市府本にある「小代焼ふもと窯」は、現存する小代焼の窯では最大級の6基の登り窯を有し、多くの弟子を輩出してきた名窯です。初代の井上泰秋さんは熊本市黒髪で肥後焼として開窯。そののち、民藝と雑器の美しさに惹かれ、昭和40年頃に窯を荒尾市府本に移して小代焼に転換しました。
井上尚之さんは1975年に泰秋さんの長男として誕生。幼少期は欠けた陶器をままごとセット代わりにして遊んでいたといいます。「中学生の頃までは当然のように将来は自分も焼き物をするんだと思っていました」と尚之さん。しかし高校に進学し、〝自分のやりたいこと〟について考え直すように。「はっきりとした何かが見えないまま恩師の薦めで地元のデザイン専門学校に進学したものの、学校よりもアルバイトが楽しくなってしまって(笑)。そんな風にフラフラとしている私を見た父から他の県の焼き物を見に行っておいでと勧められ、資金も出してくれると言うのでありがたく旅に出ることにしました」。
まずは東京の日本民藝館へ。次に栃木の益子、沖縄のやちむん、と泰秋さんの知人を点々と訪ね歩く尚之さん。だけど、なんだかまだふわふわとしている。焼き物をしたいのかどうかすらも分からない。そんな時、泰秋さんの運転手として福岡の小石原へ行ったことが、尚之さんの転機となりました。「太田哲三先生の窯を見せてもらって、焼き物を勉強するならここがいいなと自然と思えたんです。そこで早速弟子入りをお願いしたらあっさりと断られてしまって」と苦笑い。しかし、そのできごとが井上さんのやる気に火を付け、「どうしてもここでないと」と何度も志願。4度目でやっと受け入れられ、太田さんの弟子となりました。
師の下で知った万物の美 暮らしの全てが創作の一部
ところが、太田さんの下での弟子生活は、尚之さんが想像していたものとは少し違っていました。「先生からは『実家に帰ってもできないことを教えてやる』と言われ、大工や左官、庭仕事ばかりさせられていました。焼き物を学ぶために弟子入りしたのにと悶々として、当時父の下で修行していたいとこ(陶芸家の眞弓亮司さん)に弱音を吐いたら『帰ったら嫌というほど焼き物をしなければならないんだから、今は太田先生を見ていればいいんだよ』と励ましてくれて。そうかなあと思いながらも4年の修行期間を過ごし、実家のふもと窯に戻ることとなりました」。尚之さんが実家に戻った当時、泰秋さんには4人の弟子がいました。みっちりと焼き物の修行を積んでいる兄弟子と小石原で基礎しか学んでいない自身を比べ、圧倒的な技術の差に落ち込むやら、焦るやら。尚之さんは「下手な姿を見られたくなくて、皆が帰宅した深夜にこっそりと工房に戻って練習していました」と気恥ずかしそうに笑います。
兄弟子たちに負けじとひたすら腕を磨いた10年間で、尚之さんは大いに悩み、多くのことに気づきました。16歳から土に触れている泰秋さんを技術で追い越すことはできないこと、自身は決して器用ではないこと、だけど器用でなくとも〝いい器〟は作れること、センスだけは何歳からでも磨くことができること…。「暮らしの全てが創作の一部だと考え、生活の中でセンスを磨くために身の回りに自分が好きだと感じるものを置くようにしました。すると視界のあちこちに美があることにふと気付くんです。住宅の板目と柾目の使い方、アプローチの石の積み方にも美がある。小石原時代にさまざまな職人の手仕事に触れたことで私は美を知ることができたんだ、太田先生が万物の美を教えてくれたんだと、時を経てやっと理解することができました」。
十人敵でも一人は味方 金言を胸に歩み続ける
また、尚之さんはこの頃に代名詞でもあるスリップウェアの創作も始めます。スリップウェアとはイギリスに伝わる古い焼き物で、器の表面をスリップと呼ばれる化粧土で装飾するのが特徴です。
尚之さんは太田先生に教わったポン描きの技法をベースに、イギリスの現物を見たり、書籍を紐解いたりしながら、〝自分なりの何か〟を探りました。「父の小代焼とは違ったものを作ることに対して批判的な声もありました」。しかし、ある方から「十人中九人が敵でも一人は味方がいる。私は君の味方だ」と励まされたことで、それなら怖くないなと思えるようになったと言います。そこで、まずは10年間本気でスリップウェアを作ってみようと決意。すると徐々に取り扱いの店舗が増え、実際に使った人から評判を呼び、今では全国にファンを持つほどになりました。「若い人たちには、自分を信じて継続すればきっと形になるよと伝えたい。もし形にならなかったとしても、一生懸命歩いた足跡は消えないから」。
土の味と窯の力だけで幾多の焼き物を生み出すところが小代焼のかっこよさ。そう考える尚之さんは、「小代焼ふもと窯」の二代目という立場に誇りを持っています。同時に、小代焼の様式にこだわらずに〝いいもの〟を作りたいとの意も強くしています。受け継ぐ看板の重みと、自ら切り拓く道の険しさ。どちらも肌で感じながら土と向き合ってきた尚之さんは、あと2年で50歳を迎えます。「50歳からの10年間は、どんな焼き物を残すのかを決める時期」。30代は技術を身に付け、40代ではさまざまなことに挑戦。そして今、60代のために自分の道を定める時が来た、と感じているそうです。ろくろ場に腰掛け、「70代からは自由に生きる!」と笑う尚之さん。その隣には、父の背中を追いかけて三代目を目指す、息子の亮我さんの姿がありました。
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