いま、私たちが立っている土地は、原始時代からはじまり、古代、中世、近世、近代と、時代ごとに生き抜いてきた人たちが踏み固めてできたもの。そしてその土地の上に建っている建築物は、そこで生きてきた人の暮らしを記憶しているもの。

 

今回からスタートする「熊本の建築からはじまる、熊本の歴史語り」は、熊本市内に保存、管理、運営されている記念館を訪ね、そこに縁のある偉人たちがその時代に残した足跡や、建築に刻まれた記憶の一部を不定期連載でご紹介。第一回目を飾るのは、幕末の思想家、横井小楠の旧居である四時軒です。


激動の時代を駆け抜けた、思想家・横井小楠の旧居で、 ものおもいにふける、思考をめぐらす

江戸時代から明治に変わる、その激動の時代に生きた思想家、横井小楠。その晩年の住まいであり、私塾としても使っていたといわれる「四時軒」。しじけん、と読みます。熊本市東区沼山津にあり、四季折々のそれぞれの魅力的な風景を楽しめることから、小楠自らがそう名付けたといいます。

 

今回の取材のために四時軒を訪れた日は梅雨入りしてしばらくたった6月某日。時折はげしい雨が打ちつける、歴史歩きをするにはちょっと不向きな日を選んでしまったことに後悔しつつ歩みを進めると、目の前に四時軒の姿があらわれました。

「え? 横井小楠さん、新築をお建てになられました?」

思わずつぶやいてしまいました。そうなのです、新しいのです。四時軒は2016(平成28)年の熊本地震の際に部分的に倒壊し、復旧工事を終え、2022(令和4)年末に開館したばかりなのです。以前の建物の建材は、復旧の際に一部再利用され、随所に施されているものの、目に見えるところは新築同様。とはいえ、間取りや佇まいは、史料をもとに横井小楠が暮らしていた当時のまま再現されています。

玄関から入って一番奥にある横井小楠の居室だった和室。2間続きで、ここに親しい人を迎え入れていたようだ
玄関から入って一番奥にある横井小楠の居室だった和室。2間続きで、ここに親しい人を迎え入れていたようだ
建物の梁には、地震倒壊前の建材が用いられている
建物の梁には、地震倒壊前の建材が用いられている

四時軒は明治、大正と2回火事に見舞われているため、地震前の建物もほぼ横井小楠が建てた時代のものではないと思われます。ただ、当時の家の間取りを再現したということは、家を支える「礎石」は横井小楠時代からあるのでは、とパチリ。そんなことを想像するのが、復旧した記念館ならではの楽しみ方かもしれません。

 名前の由来ともなった、四季折々に美しい風景。それは、横井小楠が居室として使っていた2間続きの和室から眺めることができます。縁側には、その景色をぞんぶんに楽しんでほしいと、丈の低い椅子が設置されています。丈の低い椅子、というのがキモで、縁側に座布団でも敷いて、物思いにふけながら外を眺めていた当時の小楠目線を体感することができるのです。

小楠の居室であった2間続きの和室。その縁側には椅子が設置され、小楠目線で景色を味わえる
小楠の居室であった2間続きの和室。その縁側には椅子が設置され、小楠目線で景色を味わえる

四時軒からの眺めで、特に横井小楠が気に入っていたといわれるのが、縁側から左手に見える益城町にある飯田山(いいださん)。山のてっぺんが伐採のためなのかポコッとくぼんでいる愛嬌のある山の形は、おそらく横井小楠が見ていたものとは違うものだとは思いますが、山肌に見える四季の移ろいが特にお気に入りだったようです。

「あそこに見えるのが飯田山で…」と館長さんに説明していただきましたが、厚い雲が邪魔して見えない…
「あそこに見えるのが飯田山で…」と館長さんに説明していただきましたが、厚い雲が邪魔して見えない…
帰り間際になって、てっぺんだけ姿をあらわしてくれた飯田山。これはこれで、味わい深い(飯田山、わかりますか?)
帰り間際になって、てっぺんだけ姿をあらわしてくれた飯田山。これはこれで、味わい深い(飯田山、わかりますか?)

「小楠が見た風景を体感してほしい」との熊本市文化財課の粋な計らいで、舗装された道路など、現代を感じるものがなるべく見えないように、縁側前の植栽の高さが工夫されています。観光スポットで、ものおもいにふける、思考をめぐらす、という新しい熊本旅ができそうです。

不世出の思想家、横井小楠の思想は 明治時代以降の熊本教育界の礎となる

横井小楠は、「あの坂本龍馬が教えを請いにきた」「勝海舟が認めた思想家」「吉田松陰もたずねてきた」といった文脈で語られることが少なくありません。事実そうだったのですが、吸い寄せられるように、時代の先端で時代を変えていく人たちが横井小楠のもとをおとずれたのは、その思想に感激を受け、共鳴したからに他なりません。SNSも、バスも電車もない時代に、人から人へ伝播して、その思想が広がり、会いに行きたい、話を聞きたいという人が全国から集まってくる。相当の人物であったことが想像できるものです。

四時軒の広間。横井小楠の私塾に、どんな人たちが通っていたのか。塾生になった気持ちで座ってみる。ちなみに、壁にかけられている「四時軒」の文字は福井藩主の松平春嶽の書(飾ってあるものはレプリカ)
四時軒の広間。横井小楠の私塾に、どんな人たちが通っていたのか。塾生になった気持ちで座ってみる。ちなみに、壁にかけられている「四時軒」の文字は福井藩主の松平春嶽の書(飾ってあるものはレプリカ)

小楠の思想にひかれた一人である福井藩主の松平春嶽は、横井小楠を福井藩の藩政改革のために招聘しています。いまでいうところの、政策コンサルタント、のような立場でしょうか。藩(当時は国境のようなものだったでしょう)を超えて、教えを請うために招き入れる。しかも、熊本藩に断られても何度もお願いしたようです。よほど小楠の思想に感激していたのかうかがえる逸話です。

 松平春嶽が、幕末の三要職のひとつとされる幕府の政事総裁職についたときも、小楠は春嶽の相談役を務めています。その際に建言したのが「国是七条(こくぜしちじょう)」です。

小楠の直筆で書かれた「国是七条」の下書き。よくよく数えてみると九条あり、ここから推敲して七条にしたと思われる。四時軒に展示されているのはレプリカだが、隣接する「横井小楠記念館」には直筆が展示されている
小楠の直筆で書かれた「国是七条」の下書き。よくよく数えてみると九条あり、ここから推敲して七条にしたと思われる。四時軒に展示されているのはレプリカだが、隣接する「横井小楠記念館」には直筆が展示されている

大政奉還後、横井小楠は新しい政府から参与(官僚)として任命されたものの、明治2(1869)年1月、志半ばで暗殺されました。横井小楠は短刀を抜いてそれを防ぎましたが、力尽きて倒れたといいます。

明治維新後の「五箇条の御誓文」の起草に参加した福井藩の由利公正は、横井小楠の弟子でもあることから、横井小楠が建言したこの「国是七条」が少なからずとも影響していると考えても不思議ではないでしょう。歴史に“たられば”はナンセンスとわかっていても、「横井小楠がもう少し生きていたら…」と考えずにはいられません。

小楠が米国に留学する甥へのはなむけの言葉。東洋の道徳的政治を大事にしたうえで、西洋の科学文化を採り入れることの重要さを書いている
小楠が米国に留学する甥へのはなむけの言葉。東洋の道徳的政治を大事にしたうえで、西洋の科学文化を採り入れることの重要さを書いている
四時軒の館内には横井小楠の一生をイラストと文章で伝えるパネルが展示。このパネルは熊本地震前の建物で展示されていたもので、そのまま保存されている
四時軒の館内には横井小楠の一生をイラストと文章で伝えるパネルが展示。このパネルは熊本地震前の建物で展示されていたもので、そのまま保存されている

幕末から明治へとめまぐるしく変わっていく時代のなかで、横井小楠は江戸詰めの熊本藩士と酒宴中に暗殺団に襲われ、同僚を見捨てて逃げた罪で罰せられます。(逃げたのではなく、刀を取りに宿場に戻ったという話もあり、諸説あります)沼山津の四時軒で蟄居の身となった小楠は、美しく変化する景色を眺めながら、なにもできないもどかしさを抱え、なにを考えていたのか。小楠が生きた時代に思いを馳せてみると、世界中の情報が瞬時に得られる情報社会に生きているわたしたちにとって、ふと立ち止まって考えることの大切さを教えてもらったような気がしました。

四時軒に隣接している横井小楠記念館では、熊本藩の藩校、時習館のエリートだった小楠のことや、幕末の志士たちとの交流、実際の生活に役立つ学問のあり方を示した実学党の起こり、そこで学びを受け明治期の教育を牽引した塾生など、小楠にまつわる資料を展示。時代がどう変化し、どうつくられ、だれがどう関わっていったのか。変化の激しい現代に生きるわたしたちにとっても、貴重なヒントが多くあるように感じます。

 

 

■横井小楠記念館・四時軒

住所:熊本市東区沼山津1-25-91

問合せ先:096-368-6158

利用料金:無料

利用時間:9:30〜16:30

休み:月曜(祝日の場合は翌日)、12月29日〜1月3日

URL:https://kumamoto-guide.jp/spots/detail/64

 

 

文:やまうち ようこ

写真:下曽山 弓子

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