Koizumi Yakumo
Town where I spent time Kumamoto

小泉八雲が過ごしたまち くまもと
来日・来熊のきっかけ
猪突猛進!?
日本を見たい一心で来日を決意!
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が尊敬する女性ジャーナリストによる「清潔で美しく、文明社会に汚染されていない夢のような国、日本」という発言や英訳された『古事記』に描かれた日本に惹かれたため、1890年に来日。『古事記』に書かれている日本の始まりの場所、出雲で暮らすこととなります。
山陰の厳しい冬の寒さに
耐えられず熊本へ!?
ハーンが寒気に襲われて体調を崩し、小泉セツを身のまわりの世話をしてもらうため雇用。その後、出雲での本格的な2度目の冬を迎える直前に、セツとその家族を伴い、来熊。第五高等中学校(現・熊本大学)の英語教師に。「熊本は暖かいな。扶養家族も増えて、高い給金もいるからな〜」と言ったかどうかは定かではありません(笑)
知っとる?八雲
  • 1850年
    6月27日、ギリシャのレフカダ島で次男として生まれる。
    父:アイルランド人英国陸軍軍医補のチャールズ・ブッシュ・ハーン
    母:ギリシャ人のローザ・アントニア・カシマチ
  • 1852年
    父の故郷であるアイルランドのダブリンへ移住。
  • 1854年
    母:ローザはハーンを残してギリシャへ帰国し、両親が離婚。
    以後、父方の大叔母:サラ・ブレナンのもとで生活を始める。
  • 1866年
    16歳のころ、回転ブランコで遊んでいたとき、
    ロープの結び目が左眼に当たり失明。
  • 1867年
    大叔母:サラ・ブレナンが破産したことにより、神学校を中退。
    ロンドンに移住。
  • 1869年
    移民船でアメリカへ渡り、オハイオ州シンシナティへ。
  • 1874年
    日刊新聞シンシナティ・インクワイアラー社の正式社員となる。
  • 1877年
    シンシナティを離れ、ルイジアナ州のニューオーリンズへ移住。
  • 1887年
    ハーパー社の寄稿家として西インド諸島のマルティニーク島へ。
  • 1890年
    急遽日本に行くことを決意し、来日。
    ※英訳された『古事記』に描かれた日本に惹かれて。
    島根県松江尋常中学校の英語教師となる。
  • 1891年
    身のまわりの世話をしてもらうため松江の士族・小泉湊の
    娘である小泉セツを雇う。
    松江市を出発し、熊本市へ移住。
    第五高等中学校(現在の熊本大学の前身校)の英語教師となる。
  • 1893年
    長男:一雄(レオポルド・カズオ・ハーン)が生まれる。
  • 1894年
    五高の瑞邦館で『極東の将来』と題して講演。
    熊本スピリッツであり熊本の美徳
    「簡易・善良・素朴」を愛し、
    生活信条とし無用な贅沢と浪費を憎む精神であると結んだ。
    熊本市を出発し、神戸市へ移住。
  • 1896年
    帰化手続きが完了し、小泉八雲と改名。
    東京帝国大学文科大学の英文学講師に就任。
  • 1897年
    次男:巌が生まれる。
  • 1903年
    長女:寿々子が生まれる。東京帝国大学文科大学講師を退職。
  • 1904年
    早稲田大学講師に就任。
    代表作『怪談』を出版。
    心臓発作により他界。享年54歳。
八雲の本
八雲の本
  •  この話の主人公である盲目の琵琶法師:芳一が、怨霊から逃れるため全身に経文を書き、難を逃れようとするものの、耳だけ経文を書き忘れられたため、耳を千切られるという話。
     芳一が直面した困難や恐怖に対し、どのように立ち向かったかといったところから、自己を守るために重要な内なる勇気や直感、決断力をもって行動することについて考えさせられる作品。
  •  吹雪の夜、二人の木こり(茂作と巳之吉)が小屋で寒さをしのいで寝ていると、茂作の命を奪う恐ろしい目をした白ずくめの長い黒髪の女:雪女に出会う。「このことを話したら命はない」と脅された巳之吉は、誰にもその話をしなかった。後に、お雪という女性と出会い、たくさんの子どもに恵まれて幸せに暮らすが、うっかりお雪に雪女の話をしてしまう。お雪は「子どもたちを立派に育てておくれ」と言い残して、消えてしまう。
     雪女という脅威や神秘性を通して、人間と自然の関係性、自然に対する畏敬の念の重要性などを考えさせられる作品。
  •  元武士で武勇に優れていた僧侶:回龍が諸国を巡る。
     山間の寂しい場所で夜を迎え、木こりと出会い、木こり家族の家に招かれる。その夜、回龍はその木こりたちが首のない胴体であることに気づき、その首たちとの戦いの末、打ち勝つ。
     回龍が首を持って旅を続けると、盗賊に遭遇。首を欲しがったため譲ることとする。盗賊は、その首を持って人々を脅しながら盗みを続けるも、首の祟りを恐れて丁重に葬った。
     妖怪や怪異を通じて、予期せぬ事態や新しい状況に対して適切に対応する人間の本質や社会のあり方、変化を受け入れる柔軟性の大切さを考えさせられる作品。
八雲の本
  • 知られざる日本の面影

     来日後第1作目として、熊本で執筆された。
     ハーンの日本に対する関心と理解、旺盛な好奇心、観察力や洞察力により、文学作品ではあるものの、今でいう松江や出雲の旅行ガイドブックともいえる作品。
  • 石仏(「東の国から」所収)

     ハーンの散策場所であった五高の裏山にある小峯墓地で巡らせた思いを綴る。
    じっと瞑想にふけっているようなまなざしで半目を開き、学校と騒々しい生活を静かに見下ろす。
    加藤清正時代からずっと座り続ける石仏に、神秘的な眼差し、心なごませる微笑。古き良き日本の面影に魅せられながら、人間の生き方について考察した作品。
  • 願望成就(「東の国から」所収)

     日清戦争がはじまり、兵士であふれる熊本の街。
     本妙寺では、団扇太鼓を打ち鳴らす音が響きわたり、加藤清正公にお参りすると弾にあたらないと信じる兵士たちが集まり騒然としていた。軍服を着た昔の教え子が出征のための別れの挨拶として訪ねてきた際、「死」について論じ、日本人のこころを探し求めた作品。
八雲とセツが歩んだ人生
  • セツの生い立ち
     セツが生まれたのは1868年。父方も母方も名家でしたが、その頃、日本は幕藩体制から資本主義社会へ移行し、近代化へ向かう改革の真っただ中。それはまさに士族没落の時期でもありました。セツの実家である小泉家も、養女に出された稲垣家も、その波に翻弄され生活は困窮していました。
  • 松江でのセツとの
    出会い・結婚
     セツは、小泉家、稲垣家の暮らしを一人背負っていました。そこに、知人より、「お雇い教師のハーンさんが異国の日本で不自由な生活をしており、体調を崩して寝込んでいらっしゃる。身のまわりの世話をしてくれる人を求めておられるが」とのお誘いがかかる。セツは、恩を受けた養父母や行き詰った家計、母親のことなどを思い、家族のためにもと決意し、ハーンのもとへ。
  • 八雲とセツの暮らし
     ギリシャの自然豊かな島で生まれ、アイルランドで育ち、アメリカに渡ったハーン。島根県松江の士族・小泉家に生まれ、子どもに恵まれなかった親類・稲垣家の養女となったセツ(後に復籍)。二人は縁あって、一緒に。
     ハーンは、セツに民話や伝説を調べてもらうなど、日本の神秘的な文化に触れる生活を送ります。ハーンの作品において、セツが果たした役割は極めて大きく、セツが優れた語り部であったことがわかります。セツは、ハーンから英語のレッスンを受けながら、発音の聞き取りや意味を英単語帳へ書くなど真面目さとともに、ハーンの身体的な衰弱と神経過敏なこころを豊かな母性で包み、陰で支えました。八雲と死別するまでの13年9か月の結婚生活で、4人の子どもにも恵まれます。
八雲とセツが見た熊本の風景

小泉八雲熊本旧居(熊本市指定有形文化財)

明治24年(1891)11月、熊本大学の前身である第五高等中学校(明治27年(1894)第五高等学校と改称)の英語教師として島根の松江中学校から赴任し、明治27年10月までの3年間を熊本で暮らしました。
熊本に来て最初に住んだ家が当時手取本町34番地にあったこの家であり、この家を借りるにあたって、ハーンは特別に注文して神棚を設けました。毎朝、神棚に拍手(かしわで)を打って礼拝し、人力車で学校に通っていたハーンは日本の心を深く愛していました。日本を世界に紹介した「知られぬ日本の面影」「東の国から」などの著書は熊本での生活から生み出されたものです。
 昭和30年代に取り壊しの危機が訪れましたが、小泉八雲熊本旧居保存会が結成され、現在地に移転し保存されることになりました。

所 在 地
〒860-0801 熊本市中央区安政町2-6
利用料金
大人・高校生:200円、小・中学生:100円、未就学児:無料
(熊本市内の小・中学生、65歳以上の方は無料)
定 休 日
月曜(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
利用時間
9時30分~16時30分
駐 車 場
駐車場はありません
アクセス
■市電「通町筋」下車、徒歩約5分 ■桜町バスターミナルから徒歩約11分

小泉八雲 熊本旧居

熊本に来て最初に住んだ家。この家を借りるにあたって、ハーンは神棚を設け、毎朝拍手を打って礼拝し、人力車で学校に通っていました。日本を世界に紹介した「知られぬ日本の面影」「東の国から」などの著書はここでの生活から生み出されたのです。

五高記念館

教鞭をとった第五高等中学校(現在の熊本大学の前身校)の校舎として明治22年(1889年)に完成した建物です。通称赤門と呼ばれる正門などとともに国の重要文化財に指定。内部は復元教室と展示室があり、当時の面影を今に残します。

小峯墓地の石仏

熊本大学の裏、立田山の上り口にある小峯墓地にひっそりと佇む「鼻かけ地蔵」。八雲はことのほか気に入り、授業の合間やセツとの散歩などでよく行っていたそう。「石仏」(『東の国から』所収)の舞台とされています。

くまもと文学・歴史館

小泉八雲をはじめとする熊本ゆかりの文学者の原稿や遺品などの近代文学資料などを展示しています。「くまもとの記憶」に触れられる貴重な場所です。

長六橋

薩軍による官軍士官の襲撃を目撃したものの、自らの命を見逃してくれた恩義のために、律儀に何年も口外しなかった老車夫を描いた作品「橋の上」(『日本雑記』所収)の舞台といわれる橋です。西南戦争の時に橋の上で起こった出来事を元に、信義に厚い“日本人の美徳”を表現しています。

八雲通り

熊本の第二旧居。建物は現存しませんが、八雲通りとしてその名を残します。この坪井の家に熊本城内の宿舎から聞こえる兵士たちの歌声や、出征を控えた教え子が訪れたことなどから「願望成就」(『東の国から』所収)が描かれたと言われています。

上熊本駅

日本的な情けといった“日本人の心”をとらえた作品「停車場にて」(『心』所収)の舞台。実際に起きた巡査殺しの事件を元に、福岡の刑務所から護送されてきた殺人犯と、殺された巡査の妻と子どもが対面したのが池田駅(現在の上熊本駅)とされています。

本妙寺

「願望成就」(『東の国から』所収)に登場する本妙寺は、日清戦争前夜、加藤清正のご加護により「本妙寺にお参りすると弾に当たらない」と信じられ、多くの軍人が参詣していました。

浦島屋(宇城市三角町)

長崎へ出かけた帰りに、三角の浦島屋に立ち寄り宿泊。この旅行の経緯は、浦島伝説の由来をめぐる論考と絡めて、後に名作「夏の日の夢」を生むきっかけとなります。現在、建物の2階に、築港当時と小泉八雲に関する資料を展示されています。
八雲ミニ検定
  • 八雲はどこで生まれたでしょう?
  • 八雲が左目を失明したのは、いくつのときでしょう?
  • 八雲の初来日は、いくつのときでしょう?
  • 八雲はどれくらい熊本で過ごしたでしょう?
  • 八雲が書いていない作品はどれでしょう?
  • 「八雲」という名前は何をもとに付けられたでしょう?
  • 八雲の長男の名前はなんでしょう?
  • 八雲の妻:小泉セツをモデルとした2025年度後期の連続ドラマ小説のタイトルはなんでしょう?
  • 八雲の熊本スピリッツに含まれないものはどれでしょう?
  • 八雲が英語教師として赴任していた第五高等学校での後任は誰でしょう?

答え #1:3/#2:2/#3:3/
#4:3/#5:4/
#6:1/#7:3/#8:3/
#9:4/#10:3

八雲の豆知識
【好きな物】
西、夕焼け、夏、海、遊泳、芭蕉、
淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱
【好きな場所】
マルティニーク、
松江、美保の関、
日御崎、焼津
【好きな食物や嗜好品】
ビフテキ、
プラムプーデン、
煙草
【嫌いな物】
うそつき、弱いもの苛め、
フロックコートやワイシャツ

【Tsunami】日本で当たり前に使われてきた「津波」という言葉。今や世界共通語ともなっている「Tsunami(津波)」は、八雲の作品「生神様 (A Living God)」の中で、世界に紹介されました。この作品は、高台に住む村長の機転によって多くの命が「Tsunami(津波)」から救われたという実話に基づく物語。村長は、収穫された稲むらに火を点けることで村人の関心を集めて急を知らせ、自らの財産を失いながらもたくさんの村人を助けることができました。その後、村長は生きたまま大明神と呼ばれるようになったと綴られています。

八雲がたくさんの作品を通じて綴った日本、熊本への期待

 小泉八雲は、清潔で美しく、豊かな自然と神秘に満ちた文明社会に汚染されていない国柄に惹かれてやってきました。
 彼はその独特の視点と優れた洞察力により、日本を客観的に理解し、日本文化に深い愛情を持ちました。ラフカディオ・ハーン=小泉八雲=怪談として知られているところが多いですが、彼の異文化への理解や人種などへの偏見を持たず、純粋な心で社会を見つめた姿勢など、たくさんのことを教訓として学ぶことができます。

 彼が熊本市の第五高等中学校(現在の熊本大学)の瑞邦館で講演した「極東の将来」の中で、「私は、『九州スピリッツ』と呼ばれてきたものが何であるかについて考えてきた。そして遠い昔からの立ち居振る舞いの素朴さと生活の誠実さは、古くから熊本の美徳であったと聞き及んでいる。もしそうであるなら、日本の偉大な将来のためには、この九州スピリッツ・熊本スピリッツを維持涵養することにあり。熊本スピリッツとはまさに、簡易、善良、素朴を愛し、日常生活において無用な贅沢と浪費を憎む精神である」と伝えています。

八雲を支えた妻・セツ

 家系図から見ると、士族の娘に生まれるものの、時代の流れも相まって生活は困窮。
 家族を支えるために過酷な幼少期を過ごし、ハーンと出会ったことで、三男一女の子どもにも恵まれ、妻として、公私ともに夫を支える生涯を送った。
 誰しも知っている「耳なし芳一」や「雪女」、「ろくろ首」などの怪談だけではなく、小説、随筆、紀行文など、幅広いジャンルの作品についても、セツなくしては生まれることはなかった。
 語り部としての才能を持っていたセツは、ハーンの執筆活動の最大の協力者となり、共にたくさんの作品を作り上げることへ繋がった。

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