近代日本の夜明けと西南戦争

雨ノチ朝 ―「西南戦争」が遺したもの ―

  • 「西南戦争」の話を聞いた―
  • 日本史の教科書に出てくるけど、詳しくは知らなかった。
  • 政府軍対薩摩軍。国の未来をかけた戦い。物量兵器と刀の魂。
  • ひとりひとりの思いが交錯し、激しく火花を散らした。
  • 熾烈を極めた戦いは何を遺した?
  • 西南戦争花
  • 花
  • 花西南戦争
  • 150年くらい昔、時代は大きく動いた。激動の時代。
  • 開国によって、国内の意見は対立する。
  • 日本はどこへ向かったのか。

大政奉還

日本は鎖国から開国へと舵を切った。外国に門戸を開かざるをえない人々と、とにかく外国を排除して幕府を倒したい人々。その対立に権力闘争も加わり、日本は混乱していた。坂本龍馬(さかもと りょうま)らの仲介で薩摩藩と長州藩は反幕府で一致する。15代将軍徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は幕府の政治改革をおこなうが、倒幕の気運は高まり、結果的に慶喜は朝廷に政権を返す。 歴史上の大事件、「大政奉還」だ。江戸時代‐武士の時代-は終わりを告げた。 新政府により、新たな時代が幕を開ける。 明治時代―積極的に外国文化を受け入れ、近代化の波がうねりとなって 押し寄せた。そんな時代―。
大政奉還
大政奉還
  • 大政奉還花
  • 花大政奉還
  • 花
  • 急激な変化はどこかに軋轢を生じさせる。
  • 当然、不満を抱く人が沢山いたはずだ。

西郷隆盛

新政府は急激な近代化・中央集権化を推し進める中、それまで支配階層だった武士の特権を奪う。 これが各地で武士の反乱を招くことになる。新政府設立の立役者の1人だった西郷隆盛(さいごう たかもり)は、政府要職を辞職して、鹿児島で私学校を開いていた。 武士の反乱が頻発する中で政府は、大きな武力となる私学校生徒と強いカリスマである 西郷に対し警戒を強める。不満と怒りを募らせる私学校生徒。 ついに西郷を擁して挙兵した。 ここに国内最後の内戦西南戦争の火蓋は切って落とされた。
西郷出陣
西郷出陣
  • 西郷出陣花
  • 花西郷出陣
  • 花
  • 熊本城って加藤清正が造ったお城で、
  • 熊本県のシンボル。とばかり思ってたけど、
  • 明治時代には陸軍の軍事基地だった。
  • 薩摩軍が包囲する激戦の舞台は清正の不落城。

熊本城炎上

1877年(明治10)2月14日、大雪。空気がピンと張り詰める。薩摩軍は東京へ向け鹿児島を出発した。 薩摩軍と政府軍は熊本城でぶつかる。2月19日11時頃、突如熊本城内に火の手が上がり、風にあおられて一気に燃え広がる。天守閣と本丸御殿は全焼。火災の原因は、失火、政府軍による戦略上の自焼、薩摩軍による放火など諸説あって、いまだ謎に包まれている。 薩摩軍は桐野利秋(きりの としあき)指揮のもとに熊本城総攻撃を始めた。 政府軍は砲撃でこれに応戦。 熊本城一帯はたちまち戦火に見舞われた。薩摩軍の猛攻に耐え、 城は50日余りに及ぶ籠城戦に持ちこたえた。
熊本城攻防
熊本城攻防
西郷出陣
熊本城炎上
  • 雨は降る降る じんばは濡れる 越すに越されぬ田原坂
  • 民謡にある田原坂の戦い。
  • 砲弾が飛び交い、硝煙の匂いがたち込める。
  • 刀と刀がぶつかる音が聞こえる。

田原坂の戦い

熊本城へ政府軍増援部隊が南下してくる。交通の要所である田原坂。交通路を確保したい政府軍と、要所を死守する薩摩軍。3月4日から17昼夜にわたる激戦が繰り広げられる。3月20日、夜半からの雨に濃い霧が立ち込めた。政府軍は濃霧に乗じて薩摩軍陣地に接近。早朝、号砲を合図に一気に攻め入った。不意を突かれた薩摩軍は耐え切れず、ついに田原坂から撤退することになる。
その後も必死の戦闘が続くが、4月15日に西郷隆盛は夜陰にまぎれ熊本より退く。 益城町に本営を設けた薩摩軍は、4月20日、御船での戦いに大敗し、矢部まで退く。 戦闘を続けながら南下する薩摩軍は、9月1日に鹿児島に到着。追う政府軍は、 城山に籠る薩摩軍を包囲する。9月24日、政府軍の激しい砲撃に屈し、 西郷は城山で自刃した。享年51。西南戦争終結。
田原坂の戦い
田原坂の戦い
  • 田原坂の戦い花
  • 花田原坂
  • 花
  • 激しい戦争だった。まだ若い命もたくさん失われた。
  • 西南戦争に参戦した人は9万人いて、
  • そのうち14000人が亡くなったそうだ。

赤十字の精神

熊本の医師・鳩野宗巴(はとの そうは)は、西南戦争の最中、薩摩軍熊本隊より熊本城の戦闘で傷ついた兵士の治療を依頼される。戊辰戦争の際、横浜の軍事病院で西洋医学の知識と国際赤十字の医師としての博愛精神を学んだ経験のある宗巴は、薩摩軍・政府軍の別なく治療することを条件に治療を承諾する。患者が多く、病室が足りなくなると、民家を借りて治療にあたった。 宗巴は戦後、賊軍に加担したとの疑いで裁判に問われるが、無罪となる。博愛人道の先駆者となった。
元老院議官の佐野常民(さの つねたみ)は、西欧視察で敵味方の区別なく救護する赤十字活動に深い感銘を受けた。 西南戦争で多くの死傷者が出ていることを知り、救護団体博愛社の創設を決意する。政府に設立を申し出るが、戦火の中の混乱をさけるためと却下される。しかしおびただしい数の負傷者が放置される現状に、佐野は山縣有朋(やまがた ありとも)を介し、ジェーンズ邸などで征討の指揮をとっていた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)に博愛社設立を願い出る。許可を得た佐野は、大給 恒(おぎゅう ゆずる)とともに傷病兵の救護活動に踏み出した。ここに国際赤十字を規範とした救護団体が、公認されることとなった。
赤十字の精神 赤十字の精神 赤十字の精神 赤十字の精神 赤十字の精神

仁愛と平和

  • 花仁愛と平和
  • 仁愛と平和花
  • 花
  • 西南戦争が遺したもの。
  • 西南戦争は人々に深く大きな傷を遺した。
  • と同時に、仁愛と平和の尊さを人々の心に刻んだ。
  • 近代日本の夜明け ― 新しい朝がきた。

西南戦争

- キーパーソン / 人物 -

横 井 小 楠

横 井 小 楠 ( よこい しょうなん )
幕末の思想家。坂本龍馬らに影響を及ぼす。明治新政府に登用されるが暗殺される。

西 郷 隆 盛

西 郷 隆 盛 ( さいごう たかもり )
薩摩出身の士族。明治維新立役者のひとり。人望が厚く、西南戦争では薩摩軍総大将。

谷 干 城

谷 干 城 ( たに たてき )
陸軍少将。熊本鎮台司令長官。西南戦争では熊本城における籠城で、薩摩軍の攻撃に耐え、熊本城を死守。

佐 野 常 民

佐 野 常 民 ( さの つねたみ )
ヨーロッパで赤十字活動に感銘し、西南戦争下の日本で救護活動をおこなう博愛社の設立に尽力。

- ステージ/舞台 -

田原坂エリア

田原坂西南戦争資料館

「西南戦争」最大の激戦地となった田原坂に建ち、映像・音などで戦いの様子をリアルに再現した体感展示などがあります。企画展示などもあり、戦争の痕跡を通して、戦争の悲惨さや平和の大切さを今に伝えています。

田原坂西南戦争資料館
田原坂西南戦争資料館
弾痕の家(復元)
弾痕の家(復元)
「熊本市田原坂西南戦争資料館」ガイド案内

熊本市田原坂西南戦争資料館では、西南戦争の歴史や数々のエピソード、地元ならではの伝承をもっと知っていただけるよう、ガイドが案内をしています。

【申し込みについて】
●要予約 1週間前までに電話にてお申し込みください。
●電話番号 096-272-4982(熊本市田原坂西南戦争資料館)
●所要時間 基本のコース1時間
●料金 コースなど条件によります。お問い合せください。
●所要時間 原則9:00~16:00(ご相談に応じます)
田原坂公園
田原坂公園
田原坂観光ガイドの会
田原坂観光ガイドの会
熊本城
桜の馬場 城彩苑

熊本城エリア

熊本城

「西南戦争」で政府軍が籠城戦を決め、薩摩軍が包囲する激戦の舞台。城は50日余りに及ぶ猛攻に耐え、退却する西郷隆盛は、加藤清正に負けたようなものだと語ったといわれています。

桜の馬場 城彩苑

城下にある観光交流施設。熊本ならではのお土産や飲食施設、観光案内所のほか、「わくわく座」では、江戸時代の熊本城の姿を完全再現したコンピューターグラフィックを観る映像シアターで、考え抜かれた清正の城造りを紹介し、難攻不落の名城熊本城の秘密に迫ります。

川尻エリア

熊本藩の年貢米の集積地や軍港として栄えた港町。

薩摩軍の本営があったと伝わり、多くの史跡や歴史的建造物が遺される街。伝統工芸や和菓子なども盛んで、歴史や文化を活かした町並づくりが進められており、街歩きを楽しむことができます

熊本城
西南戦争時にも使われたと伝わる船着場
西南戦争時にも使われたと伝わる船着場
くまもと工芸会館
くまもと工芸会館

- ステージ/舞台 -

国内最後の内戦、西南戦争。 政府軍が死守する熊本城は、明治10年2月19日に突如炎上する・・ 戦後140年の節目、西南戦争最大の謎とされる熊本城炎上の原因究明に、最新の研究結果を用い様々な角度から迫りました。

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