大政奉還
日本は鎖国から開国へと舵を切った。外国に門戸を開かざるをえない人々と、とにかく外国を排除して幕府を倒したい人々。その対立に権力闘争も加わり、日本は混乱していた。坂本龍馬(さかもと りょうま)らの仲介で薩摩藩と長州藩は反幕府で一致する。15代将軍徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は幕府の政治改革をおこなうが、倒幕の気運は高まり、結果的に慶喜は朝廷に政権を返す。 歴史上の大事件、「大政奉還」だ。江戸時代‐武士の時代-は終わりを告げた。 新政府により、新たな時代が幕を開ける。 明治時代―積極的に外国文化を受け入れ、近代化の波がうねりとなって 押し寄せた。そんな時代―。
西郷隆盛
新政府は急激な近代化・中央集権化を推し進める中、それまで支配階層だった武士の特権を奪う。 これが各地で武士の反乱を招くことになる。新政府設立の立役者の1人だった西郷隆盛(さいごう たかもり)は、政府要職を辞職して、鹿児島で私学校を開いていた。 武士の反乱が頻発する中で政府は、大きな武力となる私学校生徒と強いカリスマである 西郷に対し警戒を強める。不満と怒りを募らせる私学校生徒。 ついに西郷を擁して挙兵した。 ここに国内最後の内戦西南戦争の火蓋は切って落とされた。
熊本城炎上
1877年(明治10)2月14日、大雪。空気がピンと張り詰める。薩摩軍は東京へ向け鹿児島を出発した。 薩摩軍と政府軍は熊本城でぶつかる。2月19日11時頃、突如熊本城内に火の手が上がり、風にあおられて一気に燃え広がる。天守閣と本丸御殿は全焼。火災の原因は、失火、政府軍による戦略上の自焼、薩摩軍による放火など諸説あって、いまだ謎に包まれている。 薩摩軍は桐野利秋(きりの としあき)指揮のもとに熊本城総攻撃を始めた。 政府軍は砲撃でこれに応戦。 熊本城一帯はたちまち戦火に見舞われた。薩摩軍の猛攻に耐え、 城は50日余りに及ぶ籠城戦に持ちこたえた。
田原坂の戦い
熊本城へ政府軍増援部隊が南下してくる。交通の要所である田原坂。交通路を確保したい政府軍と、要所を死守する薩摩軍。3月4日から17昼夜にわたる激戦が繰り広げられる。3月20日、夜半からの雨に濃い霧が立ち込めた。政府軍は濃霧に乗じて薩摩軍陣地に接近。早朝、号砲を合図に一気に攻め入った。不意を突かれた薩摩軍は耐え切れず、ついに田原坂から撤退することになる。
その後も必死の戦闘が続くが、4月15日に西郷隆盛は夜陰にまぎれ熊本より退く。 益城町に本営を設けた薩摩軍は、4月20日、御船での戦いに大敗し、矢部まで退く。 戦闘を続けながら南下する薩摩軍は、9月1日に鹿児島に到着。追う政府軍は、 城山に籠る薩摩軍を包囲する。9月24日、政府軍の激しい砲撃に屈し、 西郷は城山で自刃した。享年51。西南戦争終結。
赤十字の精神
熊本の医師・鳩野宗巴(はとの そうは)は、西南戦争の最中、薩摩軍熊本隊より熊本城の戦闘で傷ついた兵士の治療を依頼される。戊辰戦争の際、横浜の軍事病院で西洋医学の知識と国際赤十字の医師としての博愛精神を学んだ経験のある宗巴は、薩摩軍・政府軍の別なく治療することを条件に治療を承諾する。患者が多く、病室が足りなくなると、民家を借りて治療にあたった。 宗巴は戦後、賊軍に加担したとの疑いで裁判に問われるが、無罪となる。博愛人道の先駆者となった。
元老院議官の佐野常民(さの つねたみ)は、西欧視察で敵味方の区別なく救護する赤十字活動に深い感銘を受けた。
西南戦争で多くの死傷者が出ていることを知り、救護団体博愛社の創設を決意する。政府に設立を申し出るが、戦火の中の混乱をさけるためと却下される。しかしおびただしい数の負傷者が放置される現状に、佐野は山縣有朋(やまがた ありとも)を介し、ジェーンズ邸などで征討の指揮をとっていた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)に博愛社設立を願い出る。許可を得た佐野は、大給 恒(おぎゅう ゆずる)とともに傷病兵の救護活動に踏み出した。ここに国際赤十字を規範とした救護団体が、公認されることとなった。