市政だより「こちら東区です」「堯舜孔子の道・小楠の世界観」

「堯舜孔子の道・小楠の世界観」

「堯舜孔子の道・小楠の世界観」

「送別の語」 熊本市寄託 横井和子氏蔵


慶応2年(1866)4月、横井小楠の甥左平太・大平兄弟が米国留学のため、、長崎から船出しました。

小楠は、その出発に当たって、2人にはなむけの言葉を与えています。

それは「堯舜孔子の道」の書き出しではじまる「送別の語」です。

小楠は、将来の状況を見越して、亡くなった兄時明の子である左平太・大平を国家のために役立つ有能な人材に育て、

西洋のことを実地に学ぶことを勧めたいと心に決めていました。


明堯舜孔子之道 堯舜孔子の道を明らかにし、

尽西洋器械之術 西洋器械の術を尽くす。

何止富国 何ぞ富国に止まらん、

何止強兵 何ぞ強兵に止まらん、

布大義於四海而巳 大義を四海に布かんのみ。

有逆於心勿尤人 心に逆うこと有るも人を尤むること勿れ、

尤人損徳 人を尤むれば徳を損ず。

有所欲為勿正心 為さんと欲する所有るも心を正(あて)にすること勿れ、

正心破事 正にすれば事を破る

君子之道在脩身 君子の道は身を脩むるに在り。


そこで、元治元年(1864)四時軒を訪れた坂本龍馬を介して勝海舟に2人を預け、神戸の海軍操練所に入所させたのです。

しかし、翌年の慶応元年(1865)海軍操練所が閉鎖されたため、2人は長崎に移り、

長崎語学校に通って英語の研鑽に励むうち米国留学を志し、翌年4月、渡米が実現しました。

甥の左平太22歳・大平17歳、小楠58歳の時です。 この時、小楠は「送別の語」を2人に与えました。

これを要約すると「これからの日本は、古代中国の聖天子といわれる堯・舜・孔子が行った道徳的政治を基本に据えて、

西洋の科学文化を積極的に取り入れなければならない。そして、単に富国強兵で終わるだけでなく、

日本が先頭に立って正義人道を世界に広め、真の世界平和を作らなければならない。」と強調しています。

特に、前半の語句は、小楠の理想と信念を簡潔に表したものと言えます。後半は、2人の修養に関する内容です。

当時の海外出国は国禁でしたので、2人は乗務員(水夫)として、便船によって渡航しています。

2人は航海学校などに入学し、学業に実地訓練に意欲的に取り組みましたが、

明治2年(1869)末に肺結核にかかった大平は単身帰国しました。

帰国後の大平は、洋学校設立と外国教師招聘のために奔走し、ジェーンズを洋学校教師として招くことができましたが、

それを見ずして亡くなりました。

左平太は、一旦帰国し、結婚して短い新婚生活を送ったのち、学業を続けるため再度米国に戻りました。

1875年に再帰国し政府に元老院権少書記官として出仕しますが、肺結核のため同年31歳で死去します。


※最終回は、「小楠の死と小楠顕彰」について紹介します。

文責 横井小楠記念館長 中島 勝則

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