「小楠の死と小楠顕彰」

 明治元年(1868)4月11日、江戸城無血開城の3日前の4月8日、横井小楠は新政府より召命され、沼山津から京都に旅立ちました。小楠は、召出された人たちの中では最年長で、見識は抜群でしたので岩倉具視には特に信頼され、小楠の献策が用いられていたようです。閏4月21日、官制改革が行われ、徴士参与中から選抜され新たに参与に任命されました。そして、「従四位下」の位を授けれられました。因みに肥後藩主細川韶邦の位は従四位上、世子の護久は従四位下で知人への手紙に「臣下の自分が一躍従四位下を賜ることに当惑しています。」と書いています。

明治2年(1869)1月15日の午後、京都御所近くの寺町通丸太町で一発の銃声が鳴り響くのと同時に、覆面をした6人の刺客が通りかかった横井小楠の駕籠に襲いかかりました。小楠は、駕籠を後ろ楯に四方より迫る敵を短刀一つで支えていましたが、病身の老体では思うに任せず幾太刀も浴びたうえ横合いから斬り込んできた一撃に倒されてしまいました。時に小楠は61歳でした。事件後、直ちに犯人の探索が行われました。その結果、犯人は頑固な保守攘夷派の志士と分かりました。小楠暗殺の動機は、開国論者横井小楠が新政府で重要な役割を果たしていることへの反発と「天主教を国内に広げようとしている」ことでした。  しかし、小楠は、「耶蘇教が国内に入れば、仏教と宗旨(主義・主張)争いが起こり、乱を生じる」(『沼山津対話』)ことを懸念しており、刺客たちは誤解に基づいた風説を真に受けたものと思われます。

 小楠の遺骸は京都南禅寺天授庵に埋葬され、後に沼山津の小楠公園に遺髪が葬られました。世評がどうあれ、小楠の真価を知る沼山津の人々の敬慕は非常なものでありました。門下生は、師の命日には輪番制で自宅を会場にして、追悼会を開催し、家族総出で参会し、在世当時の小楠を偲びあったといいます。その後、小楠の家族や高弟の上京等の都合もあり、実施困難となりました。しかし、大正7年以降は秋津村の「教育会」や彌富家を中心として、地元有志による「顕彰会」を組織し、毎年、1月5日を新暦に直した2月15日に「小楠墓前祭」が実施され、今日に至っています。

小楠は、波乱に満ちた生涯を送り、遂には暗殺されましたが「実践躬行」をモットーに人生を全うした数々の業績は、先行き不透明で混沌とした現代に役立つ貴重な資料となると思います。


文責 横井小楠記念館長 中島 勝則