「坂本龍馬と四時軒」
横井小楠と坂本龍馬との出会いの場所は、江戸と福井、そして熊本(四時軒で3回)があげられます。龍馬は、四時軒での3回目の会談で、小楠と激論 をたたかわせて訣別し、最後の出会いになってしまいましたが、その後「当時、天下の人物9名」(兄宛の手紙)の中に、横井小楠の名前も挙げています。
龍馬が初めて四時軒を訪れたのは、元治元年(1864)2月で、次いで4月です。勝 海舟が幕命で長崎に行った途次で、同道した龍馬を新町の御客屋から10㎞ほど離れた四時軒に遣わしています。また、竜馬個人としては、薩長同盟を画策していた慶応元年(1865)5月、薩摩からの帰りに四時軒に寄っています。
その時の様子を徳富蘆花は、父一敬から聞いた話として自著『青山白雲』に次のように記しています。「坂本(龍馬)は薩摩からの帰りがけと言ったが、今思えば薩長連合(同盟)に骨折る最中であったので、白の琉球絣の単衣に鍔細の大小を差しており、衣服は大久保(利通)のくれた物と言っていた。
酒が出て、人物評が始まった。小楠が『俺はどうだ』と聞くと、坂本は『先生は、2階に上がって酒を飲みながら西郷や大久保共がする芝居を見物していらしてください。大久保共が行き詰まったときは、ちょいと指図をしてください。』小楠は、笑って頷いた。」ところが、龍馬側の資料によると、幕府による第二次長州征伐のことも話題になり、それに肥後藩が参戦することの是非について議論しています。小楠があくまで長州の非を断じ、征伐の正当性を主張したことに龍馬が激しく批判し、遂には口論になったということです。
その後、2人は会うことはありませんでした。慶応3年(1867)11月15日京都河原町の近江屋で幕府見廻組の刺客に襲われて絶命しました。
小楠は幕府に「国是七条」を建言し、これをもとに、坂本龍馬が「船中八策」をつくり、さらに、越前藩の由利公正が「五箇条の御誓文」をつくりました。小楠は、まさに、「明治維新の青写真を描いた先駆者」と言えます。
龍馬の手紙として有名な「日本を今一度洗濯いたし申し候」も実は沼山津訪問中の雑談で「日本を大いに洗濯しなくてはいかん」と言った小楠の言葉を引用したものと言われます。龍馬が小楠の影響を受けていた証かもしれません。
※次回は、「堯舜孔子の道・小楠の世界観」について紹介します。
文責 横井小楠記念館長 中島 勝則