「越前藩『松平春嶽』と小楠」
国是七条
一、大將軍上洛謝列世之無禮
一、止諸侯參覲爲述職
一、歸諸侯室家
一、不限外藩譜代撰賢爲政官
一、大開言路與天下爲公共之政
一、興海軍強兵威
一、止相對交易爲官交易
《読み下し》
一、大将軍上洛して列世の無礼を謝せ
一、諸侯の参勤を止め述職となせ
一、諸侯の室家を帰せ
一、外様、譜代にかぎらず賢をえらびて 政官となせ
一、大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ
一、海軍をおこし兵威を強くせよ
一、相対交易をやめ官交易となせ
四時軒が建つ沼山津で50歳を迎えた小楠は、越前藩の招きにより、福井に行きます。これが、小楠と越前藩との交流の始まりですが、交流が決まるまでに約1年もかかっています。交流は、1858年から1863年までの6年間で4回行われました。この間、福井あるいは江戸にて、越前藩主や幕府の政治改革に力を尽くしています。挙藩一致に力を尽くし「国是三論」を著わしました。その内容は「富国論(天)」「強兵論(地)」「士道(人)」で構成され、「富国論」では、国(藩)が積極的に外国貿易や殖産興業に取り組み、士・民を豊かにすること、「強兵論」では、西欧諸国がアジア侵略を企てようとしている今日、我が国を防衛するには海軍を盛んにすること、「士道」では、文武の源は一つであり、精神修養が大切であることを論じています。
文久2年(1862)、小楠は、越前藩による4回目の招聘を受けて、同年6月熊本を立ちましたが、途中、松平春嶽からの急使により、直接江戸へ直行します。松平春嶽が政事総裁職(大老相当職)に就任したころ、小楠は、ブレーンとして幕府へ建白書(提言書)を書いています。それは、小楠の建白書類の中で特に有名な『国是七条』です。同年閏8月、幕府は参勤交代制度を改革しました。その主な内容は、参勤は3年に1回でよい、在府期間も100日にちぢめ、妻子も国許に帰るというもので、この改革を「文久の改革」といいます。松平春嶽は、小楠の確固たる理念や人柄への念は終生変わらず、小楠の写真を大切に持っていました。正室の勇姫は、細川斉護の三女です。 小楠と松平春嶽に因む歴史的な縁で、福井・熊本両市民の相互交流は、小楠記念館の開館を契機に一層盛んになり、両市民の有志や行政の間から「小楠先生と福井市の関係は時に温かく、相互交流の輪を広げたい」との機運が起きてきました。その機運を受けた両市長・両市議会議長は、平成6年(1994)11月16日「姉妹都市盟約書」を締結しました。
今年も8月2日から3泊4日で福井市の子どもたちが熊本市を訪れ、小楠公園で横井小楠を偲び友情を深めました。
※松平春嶽・・・松平慶永、雅号は春嶽)
※次回は、「坂本龍馬と四時軒」について紹介します。
文責 横井小楠記念館長 中島 勝則