熊本・沼山津の偉人 「横井小楠」没後150年(生誕210年)シリーズ①
来年は、私たちの住む熊本(内坪井)に生まれ、沼山津に住 んだ横井小楠の没後150年・生誕210年にあたります。 横井小楠は通称 平四郎、実名は時在、小楠と号しています。小楠は、幕末(江戸時代の末期)に日本の進むべき道を示した偉大な思想家の一人です。交流があった勝 海舟
は、小楠を次のように言っています。「おれは今までに天下でおそろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ。横井は、西洋の事も別にたくさんは知らず、おれが教へてやった位だが、その思想の高調子な事は、おれなどはとても梯子を掛けても及ばぬと思った」(『氷川清和』より)勝 海舟にそのように言わせた、横井小楠とはどんな人物だったのでしょうか。
藩校「時習館」に学び、藩命で江戸に遊学。藤田東湖や川路聖謨らと交わり、帰国して実学党を結成し、藩政改革を試みますが、藩内の主流派の反撃で失敗におわり、私塾「小楠堂」を開きます。。その後、諸国を遊歴し、吉田松陰、橋本佐内らと交わり、越前福井藩主・松平春嶽に招かれて政治顧問になり、1860年「国是三論」を著わしました。春嶽が幕府の政事総裁職に就くと、ブレーンとなり、政治改革の推進に手腕を発揮、後に失脚して 四時軒に閑居する。この間、坂本龍馬などが小楠を訪問し、多くの志士に影響を与えました。維新後は新政府の参与になりますが、共和制論者、キリスト教主義者と誤解され、京都で暗殺されています。墓は、京都南禅寺の天授庵にあり、遺髪は熊本に持ち帰られ、小楠公園に葬られています。
※「藩」という名称は、明治に入ってから行政区分として正式に用いられ、明治4年(1871年)の「廃藩置県」までのわずかの期間しか使われていません。それ以前は、熊本では、細川家・細川領という呼び方をしていました。便宜上、本シリーズでは「藩」を使用することにします。
※次回10月号から、「沼山津を中心に、横井小楠の実像」について紹介しています。
文責 横井小楠記念館長 中島 勝則横井小楠没後150年・生誕210年シリーズ①